ふんどしは風を孕む

「よるひるふんどし会議」、ご来場いただいた皆様ありがとうございました!
暑さもゲリラ豪雨も、熱気で押し返すかのごとくエネルギッシュなイベントでした。
大泉りかさんの感想が卓見です。

黒子なり、屏風で区切られた空間なり、「見えていても見えていないことにする」という日本人のメンタリティーがふんどしを日常着足らしめていたのに、戦後、西洋文化が入ってきたことで「視点」を持ってしまい、ふんどしがどんどんとパンティー化していく、そのパンティー化の扇動者が三島由紀夫だったという参助先生の考察が面白すぎた。

いわゆる「見立て」の文化ですよね。
噺家が扇子を持ってすする仕草をしたら「あ、いま蕎麦食べてるんだな」と観客が想像したり。
石庭で山河を表現したり。
その多くは西洋からも賞賛されているけれど、「裸体」だけは批判され、封印されてしまったんですね。
西洋が日本の「裸」を封じ込める過程がよく書かれた本があったと記憶してるので、今度確認しておきます。


実際にふんどしになった身からすると、ふんどしメンバーのあの一体感は筆舌に尽くしがたいものがありました。
参助先生の紹介してくださった、集合写真に写った昔の日本人のように、無邪気になれるというか…。
それはあの場にいた皆様がふんどしを「いやらしいもの」「恥ずかしいもの」として見ていなかったからなのでしょう。


隠すべきものになってからの「裸体」には価値が生まれ、現代では商業的価値がそのまま肉体そのものの価値へと適用されるようになったように感じます。もちろん、価値観自体は多様化して、ゲイやマニアの間では、一般的に「高い裸体」とは違ったタイプの裸体が喜ばれたりもしていますが…。
裸に価値を見出さないからこそ、どんな裸も、自分の裸も肯定できる。
そういう風通しのよさを感じた一日でした。