かゆくなる

二週間ほど前から、原因不明のじんましんと喘息発作に悩まされている。
悩まされている、というほど深刻には受け止めていないのだが
このような状況になってから、たびたび多和田葉子の『文字移植』(河出文庫)を思い出す。
その小説は主人公がヘンな島国に行って自分では向いていないと思われる翻訳の仕事をやるという内容なのだが
その中で、翻訳者である「わたし」はしょっちゅう皮膚がかゆくなる。

 バナナ園のことを思い出した途端わたしは右の腕がかゆくなってきた。特に手首のあたりと肘のあたりがすっぱいようにかゆくて窓からその腕を突き出して日の光にかざしてみると普通の毛穴が並んでいるだけで異常はなかった。(p10)

わたしは薬指で自分の上唇を左から右へ一直線にこすってみて中心から少し右にそれたところに虫さされの跡のような膨らみがひとつあることに気がついた。さわった瞬間そこに焼けるような痛みが走った。それからそこがたまらなくかゆくなってきた。(中略)ちょうど空腹でもないのに戯れに皮もむかずに桃をしゃぶっているとやわらかそうに見えるその表面に隠れた細い透明な毛が唇に刺さって唇の中に酸性の液体を注入しそこがかゆくなっていく時のあのかゆみと似ていた。(p18-19)



こんな風に。それはきっと評論家の誰かがゆってたように境界のせいだと思う。
境界はいたるところにあるけれど、どこに行っても逃げられないのが「わたし」と世界との境界であって
それは「わたし」が「わたし」という入れ物を持って生きている以上どうしようもない。


「世界に含まれている」と思っているうちはいいけれど誰しも何かのきっかけで世界に対面、対立せざるを得ない状況になる。
そんなとき、「わたし」の中で最も世界と接している皮膚が矢面に立たされるのだろう。
ちょっとした空気の振動がきっかけで皮膚が炎症を起こし、かゆくなる。
喘息だってそうだ。世界の一部を吸い込んだ気管支が拒否反応を示しているのだ。 


ということは、私は世界にアレルギーを起こしているのだろうか。
そうだとしたらアレルゲンである世界がなくならない限り、私のじんましんや喘息は収まることがない。
そんな事態は癪に障って仕方がない。
なんで皆が平気な顔をしているのに、私だけ体を掻き毟りながらゼエゼエ言わなきゃならないんだ。
こうなったら、私が世界のアレルゲンになって世界をゼエゼエ言わせるしかない。
どこだ、世界の気管支は。世界の皮膚はどこだ。


というわけで世界の皮膚と気管支を探す旅に出ます。以上、妄想終わり。