しかし、おれたちは鬼ババを内包している

坂東さんが猫を殺しておるとゆっているそうです。
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/770743.html
上のURL先を見たときに、おれが思い出したのは石垣りんさんの「シジミ」とゆう有名な詩。

夜中に目をさました。

ゆうべ買ったシジミたちが 台所のすみで 口をあけて生きていた。

「夜が明けたら ドレモコレモ ミンナクッテヤル」

鬼ババの笑いを 私は笑った。

それから先は うっすら口をあけて 寝るよりほかに私の夜はなかった。

おれは、坂東さんの文章を読んで「なんか誤魔化してる」とゆう感想を持ったんだけど、たぶんそれは鬼ババになれてないからだと思う。


「自分の生命を繋ぐため」「社会的責任を果たすため」と目的は違うけれど、生き物を殺すという行為の重さは同じだ。
ていうか、生命を繋ぐためだけが目的だったらシジミとか肉とか食わなくていいわけだし。植物も生物だからダメって言うんだったら、土だけ食って生きてる人もいるみたいだし、そうすればいい。ようはどんな殺しだって自分の都合に他ならない。
でも、ブンメイ社会に生きるブンメイ人としては殺しの事実を出来るだけ隠蔽したい。だって野蛮だもん。
そうして人は食用の生き物を殺す役目は特定の誰かに押し付け、増えたら困る生き物にかんしては、他の動物に殺させたり、生をコントロールするという方法で殺戮を避けた。
だけど鬼ババは違う。自分の生命のため、自分の守りたい生命のためだったら殺戮を躊躇しない。殺したことを隠蔽もしない。シジミが可哀相だから食べないなんて夜はないのだ。だから人々からは石を投げられるが、それがうざったく感じたらまた殺せばいいだけである。何故なら彼女は鬼ババだから。
人間は殺しを遠ざけようとしたが、家庭を切り盛りしなければならなかったおんなたちは、しばしば殺さざるをえない状況に直面した。うまそうなシジミが獲れたとき、育てていた鶏が丸々と太ったとき、また、望まない妊娠をしたとき。鍋でぐらぐら煮て、首を締めて、川に流して、殺した。もちろんおんなだって人間だから(シジミにかんしては人によると思うが)心が痛まないわけではない。だからこそ、おんなは殺しに直面したまさにその時、鬼ババになるのだ。


坂東さんにはそれがない。行為自体は鬼ババかもしれないが、心の中はただのブンメイ人だ。いや、もしかするとその行為の最中は心の底から鬼ババなのかもしれないが、何故かそれを否定する。ごたいそうな論を展開して、「痛みや悲しみも引き受けて」などと言い訳をして、自分の行為を正当化する。いいじゃないか、相手は口が聞けないんだから、「断固としてこの女を糾弾するニャー」とか言わないんだから、黙って殺せばいいのである。そして自分は鬼ババだと開き直って、ぐっすり寝てればいいんだ。
それをわざわざ新聞にまで書いて、自分の何を保ちたいんだろう。何を誇示したいんだろう。ブンメイ人としての体裁だろうか。ちなみにおれはもうすぐ、ふじおのタマを取りに病院へ連れて行くよ。何故かって? だっておれは鬼ババを内包したブンメイ人だから。