濁った目

中国の食の安全とか企業倫理とかが問われておるわけだが、毎日のよにワイドショーなんかでそういったニュースが放送され、コメンテーターやアナウンサーが眉をひそめるのを見ておれは胸が苦しくなる。
それまでは自分たちの先祖と同じようにごく狭い範囲のコミュニティの中で経済活動を行い貧しくも平穏に暮らしていたと思われる人たちが、大きな資本が導入されたことによって変わってしまう。隣の家のあいつが都会であれだけ稼いだとか、隣村はどこどこの企業の工場を誘致してこれだけ儲かったとか、そのことを知ったとたんに、彼らの中の感覚が一変する。
また、四角い穴だとか水路に板を渡しただけの仕切りのない、昔ながらの便所が外国人観光客に笑われたといって観光トイレ政策を打ち出す中国政府とか、それに乗っかってツタンカーメンみたいな像がそびえる巨大なトイレを作って意気揚々の現地の人とか。
おれは、そういう話を聞くたびに、明治維新前夜の日本人のことを思い出す。


ついひゃくなんじゅう年前まで、日本人は裸を隠さなかった。という。
着物の帯なんてちゃんと結ばなかったし、着崩れまくり。暑けりゃ襟をはだけて風を通すし、雨が降ったら男も女も裾をケツまでまくって家路を急いだ。銭湯だって男女混浴で、当然裸で身体を洗ってた。
そういうものだった。裸に特別な意味はなく、ただそこに自然とあるものでしかなかった*1
ある日そこに外国人がやってきた。ペリーとかそういう人たちが。で、びっくりしたわけだ。
「アレマーなんでコノ人タチは裸ナンデスカ!?」
西洋人にとって、日本人は他のアジア諸国に比べて礼儀正しく、合理的に文化文明をなしているというイメージがあっただけに、この裸の氾濫は驚きだったようだ。当然、キリスト教信者にとってはアダムとイブが知恵の実を食べて以来、裸は恥ずべきものだった。だから、そんな裸を平気で晒している日本人は野蛮、淫猥であると猛烈に非難した。
そして西洋にバカにされるわけにいかない当時の幕府とかのえらい人が、裸で出歩くことを禁止した、と。
大森貝塚で有名なモースはこのとき結構冷静に分析してて

ンー、彼ら日本人ニトッテハ裸ハ何の意味もなさないモノダッタネ。
彼らは特別ニ淫蕩ナ人々デハナク、エデンの住人ノヨウニ無邪気に裸デ生活シテイタ。
ムシロ我々が我々の通念ニヨッテ彼らを淫蕩ト見なしたダケなのネ。
デモ、その我々ガ向けタ視線によって、全く意味のない、自然ナものデアッタはずの裸ガ
彼らにトッテ意味のあるモノへと変貌シテシマッタノネ。

と、ちょっと反省モードで語っていた、とおれは記憶してる(モースの口調はてけとう)。
自分にとっては当たり前、うちでは当たり前、俺んとこの村では当たり前っていう慣習は、他者の目に晒されるまでは本人たちの中で顕在化することはない。って、当然なんだけど、おれはそうゆう視線にさらされたときの日本人の困惑の表情を思い浮かべるたびに、何か大切なものを壊したり壊されたりしたときみたいなやるせなさを感じるんだ。
中国は今まさに北京オリンピックという他者の目に晒される一大イベントを控えて、その水準に届こうと試行錯誤してる。なんだか分からないままに自分たちの常識がどんどん壊されて、追い立てられていく、そんな人たちをおれは無邪気に笑うことはできない。


でもあれだよね、先進国と同水準の衛生環境とかなんとか倫理とかさ、要は「今度おれたちが遊びに行くからおれたちの家くらい綺麗にしとけよ」みたいな話でしょ? 勝手な話だなーっていうか、世界のどこに言っても同じように生活できるって、それはむしろすごくつまらないことだと思うし、傲慢だと思う。
中国の人たちは彼らなりに追いつこうと頑張って、でもちょっとズレちゃってドラえもんが遊園地にいたりすると「プギャー(^Д^)σ」って。なんかひでぇ話だな。タカシマヤタイムズスクエアがニューヨーカーにプギャーされたのを忘れたのかね。結局はおんなじことでないかい。ばかだよばか、エコバッグ並みにばか。

*1:まあ、さすがに陰部くらいは腰巻やらふんどしやらで隠してたみたいだけど