よんだ

らも 中島らもとの三十五年

らも 中島らもとの三十五年

「明るい悩み相談室」と「こどもの一生」とあと鈴木保奈美が出てた映画でしか知らなかったんだけどね。
あと、昔ちょっかいを出した男の子がリスペクトしてたなあとか。
中学生くらいのときかなあ、わかぎゑふがどこかで書いてた文章を読んで、ずっと彼女が彼の奥さんだと思い込んでて、それなのにNHKETV特集では別に奥さんという人がいて仲睦まじそうにしてたからどうゆうこと? とか思ってたんだけどこれを読めばそこらへんの経緯も、他人に勘違いさせてしまうよなわかぎゑふの描写のわけもよく分かる。
ショックを受けている彼のファンがいるらしいけど(ちょっかいを出した男の子もそうかなあ)、アル中でへろへろの彼しか知らないので、この本のなかに出てくるヘルハウスの描写だとかは別に不思議ではなかった。むしろ、すごく誠実な人だなあと思った。
現代の婚姻契約って個人的感情に由来するところの大きい社会的行為なわけだけれども、その社会性がゴールデンタイムのホームドラマのような健全な公共性に満ちたものであると勘違いしてるひとは多いんじゃないか。どの家庭も夫と妻が愛し合っていて、すくすくと育つ子供がいる、みたいな。もしくは平日昼間に訪ねてきたクリーニング屋と奥さんが不倫してるとか、夫が残業のふりして女性部下と不倫してるとか、子供がいじめられて不登校とか。そのくらいの波乱ならば世間の奥様方が理解できる程度の公共性をじゅうぶんに備えてると思う。でも、上記の本に出てくる家庭はどうだろうか。
夫はアル中で、家には夫が連れ帰ってきた酒、クスリ、セックスに狂う大人たち、妻は咳止めシロップを一気飲みしたり、子供を寝かしつけた後にバイクで遠出をして仲間とセックスする。他の女とセックスしたいばっかりに友人に妻を差し出す夫、当てこすりのような電話をかけてくる夫の愛人。そして誰がお父さんかよく分かっていない子供……。
「理解不能だ」と呆然とする人は多いだろう、しかし一方で、夫婦なんてそんなものと言う人も多いんじゃないか。いや確かにこの例は極端だが、夫婦のあいだには他人には到底理解できない合意の領域、というものがあって、しかし「他人には理解不能である」ということには無自覚に、どの夫婦も自分たちのスタンダードをこなしている。婚姻が社会的な行為であるだけに、その「他人には理解できない領域」が白日のもとに晒されると殊更に「異様だ」「気が狂っている」「壮絶だ」などと言われてしまうが、そういう無自覚な壮絶さは、誰の生活にも潜んでいると思う。
だから彼らの生活はある意味でそう変わったものではなくて、おれが注目するのはむしろ自らの、奥さんに対する愛情に全身全霊を張って向き合い続けた中島らもの誠実さと、妻であることを決してやめる気がなかった美代子さんの包容力だ。愛することも、愛されることも、度を過ぎると耐えられなくなる。それでもお互いにそれをやめなかったのは……うん。ま、もういいか。