是非のさた と 草食系

色道大鏡を読んでいたら、女郎の指切りの項に
「本心みだれてする所行なれば是非のさたにあらず」
という記述を見つけてニヤリとした
恋愛においてたびたび起こされる非常識な行動は、たしかに非常識ではあるが「是非のさたにあらず」 つまり、他人が判断を下すことはできない領分にある、と
これは、当たり前のようでいて案外共通認識がなされていないものだとおもう
人間同士1対1になってしまえば、そこでは常識とか社会通念とかは通用しないのに、おれも含め他人の人間関係についてああだこうだと言って名前を付け、分類し、時として断罪する
たしかに健全な関係性(これも存在が疑わしいが便宜上)を保つことで精神は安定し、周囲との摩擦も減るかもしれないが、そうやって保たれる恋や愛のあれこれに、果たして焦がれるほどの魅力があるのか
こないだ二村さんが出てた文化系ラジオのテーマは「草食系男子」だった
「ヤリたいけどチキンだからヤレない」擬態型草食系男子はおいておくとして、「恋愛に興味が持てない」草食系男子が増えているとしたらその問題の根っこはこのあたりにあるのではないか
「ストーカー」「デートDV」「メンヘル女」などという名付けによって個々の恋愛の「含み」、それによって紡がれる情緒や官能の豊穣が切り落とされ、スポイルされていく、恋愛
だとしたらそんなものに魅力を感じない人々の存在にも納得がいく
そして、おれや、おれに近い感じのエロ事師たちがすべきことも、おのずと絞り込まれていくのではないかと、おもった