軋む世界と歯車なわたし

一晩中、考えていた。
人との関わりは歯車みたいなものでわたしという歯車は、ある箇所では誰かと噛み合い、他の箇所では別の誰かと噛み合う。
歯車の配置は決まっていて、それぞれの持ち場でそれぞれの働きをし、総体として世界を動かしている、と。


例えば、わたしの右側に配置されている、歯車Aとわたしは「生活」の箇所で噛み合っている。
一方、左側に配置されている歯車Bとわたしは「仕事」の箇所で噛み合っている。
更にわたしの上右側に配置されている歯車Cとわたしは「遊び」の箇所で噛み合っている。


歯車Aはというと「生活」の箇所こそわたしと噛み合っているが、「仕事」の箇所ではまた別の歯車と噛み合っている。
このようにひとつの歯車が噛み合う箇所はたくさんあって、「思想」とか「癒し」とか「思い出」とか「刺激」とか様々だ。
その歯車が、うまく噛み合って運転したり、歯がこぼれてきたら時折組み替えられたりして、世界はガタガタと軋みながら回っているのだ。
決して、わたしともうひとつの歯車だけでは上手くいかない。
色んな箇所で色んな歯車と噛み合いながら、わたしもまた世界の一部として機能するのだと。