おれとお前とサマースプリングと

昨日発売したのでそろそろレビュー解禁? とか思って書いてみる!
サマースプリング/吉田アミ
http://d.hatena.ne.jp/amiyoshida/20070707/1181268650

サマースプリング [文化系女子叢書1]

サマースプリング [文化系女子叢書1]

「自分が想像できる、一番、酷いことをしなくてはならない。」

1989年。80年代最後の年、平成元年。昭和天皇手塚治虫松下幸之助……神々は死んだ。10年後に世界は終わるはずだった。携帯電話もインターネットもなかったあの頃。偏差値と管理教育といじめに脅かされる名古屋の中学1年生の日常なんて、退屈で貧弱で無価値で絶望的で、どうしようもなくノーフューチャーだったんだ!!!
ヴォイスパフォーマー/ブロガー/前衛家として活躍する吉田アミが経験した地獄の一季節のドキュメント。真っ当で、ラディカルで、キラキラ。時代の閉塞と被害者意識の瀰漫と日本語文学の停滞を打ち破るアヴァンギャルドヤングアダルト・ノンフィクション。

本を開いてから2時間くらいであっとゆう間に読んでしまった。読んだ後は「ガラスの仮面」の北島マヤよろしく、目の中が真っ白になった。
私はアミたんとはちゃんこ食ったりスイカ食ったり「りぼん」派か「なかよし」派かで熱く語る程度の仲ではあるんだけども、なんかこう、創作という行為の中枢まで立ち入った話はしたことがなかった気がする。まぁ単純にジャンルが違うというのもあったし、私自身の「創作活動」が、またそれに対する姿勢が吉田アミのそれと比べて極めて不誠実、真摯でないことに恥じていたというのもあったし、吉田アミの芸術に対する真摯さに、芸術に愛されているその姿に嫉妬していたというのもあって、なんつーか、いつも薄目で見て、「おれだってやろうとすればこのくらい…」とか思うようにしていた。
でも、あの鋭い目をした少女の表紙を開いて、十数ページをいっぺんに読んだあたりから「これは正面から受け止めなければいけないな」と思った。そう思わせる文章だった。


正直、最初の「1989年」の気分を説明するくだりとかは、世代論を語り出しそうな気がしてなんかイヤだったし、時々「日日ノ日キ」にも見られるあのパラノイア的羅列調みたいのにも抵抗をおぼえた。そういったある種、感覚的であることを強調した部分よりも、母と祖母を冷静に論理的に観察する描写の方に、この作品の凄みがあると私は思う。
そう、狂気に満ちた母や祖母を冷静に観察する、少女。狂っているのは母や祖母のはずなのに、それを見て冷静でいられる自分の方が狂っているのかもしれないとまた冷静に思考する……この狂気のパラドックスが、丁寧に精緻に描写されていて、またそのことによって、この本が単なる時代の気分や業界の馴れ合いで制作されたものではなく、ひとつの確固とした世界、新たなコンテクストの誕生としてこの世に生まれ出たのだということが分かる。今「新たな…」と書いたが、新しいのではない。今まで誰もがそのことから目をそらしてきた、そのことを吉田アミがえぐり出し、見せつけたのだ。


この本を手に取る、若い創作者志望のお前らも、最初は鼻で笑ったり、斜に構えて読み始めると思う。でも、そうした姿勢で読めるのはほんの数ページくらいのもので、あとは自分の甘えを思い知り、吉田アミの描いたドラマに打ちのめされることだろう。私も実際、打ちのめされた一人だ。
だけど、だけど本当に、この作品が本として出版されてよかった。まだ世界はそうしたものを受け容れる世界であったのだ!
打ちのめされ、目の中真っ白にしながらも私は、そのことにほんとうに感謝し、私の世界に対する不信を少しばかり取り除くことができた。五月に生まれた子供は幸せ。私もまた、五月生まれだった。