檀那、そこまで入れてってよ

ボクトーキタンを読んだよ。
なんか昔読んだ気がするんだがまた読む機会があったので。

昭和の都電について調べてたとき、たまたま荷風先生の写真を見たんだけど、あのとき感じた先生の違和感というか風景からの離脱感の理由が今回読んだことでなんとなく分かった気がした。
江戸から東京へ、その移り変わるさまを一見旧いものの名残を惜しむようにみえて、そのじつ腹の底ではどうでもいいと思いながら眺めていただけなんだろう。どうでもいい、というのは何も失望だったり無関心だったりという意味ではなくて、何が変わろうとそれらにつれて自分の芯にあるものが変わるわけではないし、だからといって自分が変わっていくものを食い止めようとも思わない、みたいな。諦観というと座りはいいが、そこまで静かでもない。あたかもさざ波がすこし自分を打つのを楽しんでいるような。
ボクトーキタンに出てくる「わたし」とかただのかっこつけおじさんみたいで好きじゃないんだけどね。
でも、仲見世通りで所在なげというわけでもなく立っていた、あの荷風先生はきらいじゃない。

ちなみに、ボクトーキタンとゆう表記は多和田葉子さんの作品で一番すきな短編に出てくるもので、それはまたなにか示唆を含んでいるようでおれはすきだ。