「痛い」人の来歴

負の感情をあられもなくさらけ出す人間に対してたびたび「痛い」という表現が用いられるが、これについては今ひとつピンと来ない。
「痛い」とは本来話者自身しか感じ得ない感覚を指す言葉だが、それを対象そのものを指して使用するということにどのような意味があるのか。それはすなわち痛みの原因のすり替えなのではないか。
対象の言動によって引き起こされる不快感。なぜ、その言動を不快に感じるかということを追求すると自らの深層に起因することが多いのだが、多くの人はそれを省みることをしない。そんな行為は自己の崩壊につながりかねないし、だいいち不快なことをそんなに深く掘り下げたくない。だが、人間にとって名前のないものは恐怖の対象であり、実際にこみ上げる不快感に名前を付けなければ恐怖を飼い慣らしやり過ごすことはできない。
そこでとりあえず、この不快感を引き起こす人物やその言動に対して名前を付けるのではないか。つまり、その人が「痛い」人であると断言することによって、自らの奥底に眠る本当の原因からは目を反らそうという行為こそが、「痛い」人を生み出しているのだ。ババーン!
誰かを「痛い」と指さすことによって、自分の痛みを他人にすり替える。それは弱くて卑怯で嘘つきで、非常に人間くさい行為だが、その標的になった人の苦悩を思いやれないほど「痛い」ことはないな。ってワイドショーの泰葉騒動を観てておもったよ。いや、べつにどーでもいいんだけど。