いつまでも卵と思うなよ

ちょっと前のSPA!でページのほとんどが知り合いや知り合いの仕事の紹介で構成されている特集があったのだが、たまたま行きつけの喫茶店にその号があったのでパラパラと見ていた。
ら、福田和也坪内祐三の対談(連載?)があって、そこで話されていることが少し心に残った。
村上春樹イスラエルで演説したときに、以下のような発言をした、と。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/skillup/20090219/186685/

 もし固く高い壁と、それにぶつかって壊れてしまう卵があったら、私は卵の立場に立ちます。
 なぜなら、私たち人間は皆システムという高い壁に直面している卵だからです。
 私たち卵は、システムという壁に身をゆだねてもいけません。
 私たちがそのシステムを作ったのですから。

で、坪内さんが「でもー春樹は壁になんなきゃダメだよねー」みたいなことを言っていて、ああ確かにイマドキのおっさんは自分がいつまでも卵であると信じているフシがあるよなぁ、とおれは思った。
厳密なことはよく分からないが、反体制をかかげたり、そういう人にどうしようもなく憧れちゃってる世代とゆうものがあって、そういう人たちは、だけど年齢やキャリア的にすでに体制側にまわらざるを得なくなっているにも関わらず、その事実を受け容れようとしていないことが多い。「現場主義」とか自称してる人の半分はそうゆう人なのではないか(てきとう)。
はっきりゆってそれは全然客観的に自分を見れていないとゆうことだし、若い世代にとっては目の上のタンコブを通り越して、「お荷物」、「ゴミ」にしか思えない。
「今の若いもんは反骨精神が足りん」とかおっさんがゆうが、それは反骨精神をかかげるおっさんを傍から見てて「痛い」と感じるからだし、立ち向かうべき壁であるはずのおっさんたちが揃って「おれは壁ではない、卵だ」と主張するゆえに持っていきどころがないからでもある。つまりは、反骨精神をスポイルしているのはおっさんたち自身なのだ。
おれの父親は学生闘争に憧れちゃった世代であり、「卵でありたい」と願い愚直に信じつづけたことにより人生の坂を転がり落ち、現在も失踪中である。そういう父親を持つ一方で、人生を転落せずにまあまあ順調にやってきつつ「卵でありたい」などとノーテンキにゆっているおっさんたちを見ていると、問うてみたい衝動に襲われる。
「あなたは、同窓会にこなかったひとの人生を想像したことがありますか?」と。
もしくは「同窓会にこなかったひとの家族の人生を想像したことがありますか?」と。
割れない卵は卵ではない。卵なのはそのハゲた頭か突き出た腹で十分だ。